2008/01/27
1月26、27日 東京行きをおおざっぱに(しかし割りと長文か……)
高校の後輩が所属しているオーケストラ新交響楽団がストラヴィンスキーの「春の祭典」を取り上げると言うことで、兼ねてから案内を受けており、一度は生で聴いてみたかったので、週末26、27日と意を決して東京に出た。久しぶりの東京だったので、いろいろと期するところはあったのだけど、とりわけ「文字」方面の得物(えもの)が全くなかったのが残念、と言ったところか。
適当に当たりを付けて行った、写美こと東京都写真美術館の「文学の触覚」は、アートと文学のコラボレーションを狙ったもの。それぞれの表現手段自体は面白いんだけど、取り込もうとした文学作品との結びつきに必ずしも必然性が感じられないと言うか、文学作品と組まなくたって最初からみんなこう言うのを面白がっていたはずじゃん、みたいな感想を抱いたりもした。
森野和馬「谷崎リズム」は谷崎の「陰翳礼賛」のテキストを一音ずつ五十音表に当てはめて、例えばア行はフルート、ハ行はシロフォンと言ったふうにひとつの音(おん)にひとつ(シロフォンなどは二つか三つか)の音(おと)を対応させて、朗読するのと同じようなテンポで「陰翳礼賛」が演奏される。同時に壁に投影された五十音表では、対応する文字のところに各文字に割り当てられた色の球が浮かび上がるようになっている。ビジュアル的にも奏でられる音楽も心地よくて、ずっと聞き入って、あるいは見入ってしまうのだけど、これって、「文字を音やビジュアルに変換するシステム」を作った時点でこの人の作品としては完結しているんじゃないんだろうか? そこに入力するテキストが谷崎なのか他の誰かなのかってのはこの作品にとって余り重要ではないような気がしてしまった。たぶん谷崎には谷崎のリズムがあるってことを言いたかったのかも知れないけれど……。
この展示で最大の得物はと言えば、やっぱり児玉幸子の「モルフォタワー」かなと。「磁性流体」なるものを使った作品で、かつて自然科学系の学術サイト(大学の先生が書いてるテキスト主体のサイトが主かと)で紹介されていたところから知ったのだと思うけど、児玉幸子の名前は覚えてなかった。ただ、理系でアートでしかも女性って言うような漠然としたキーワードと、尖ったりとろけたりを繰り返す液体のイメージだけがあったのだけど、まさかここでお目にかかれるとは……。これのために入場料500円を払う価値はあった。
とは言え、これはあくまで「参考展示」であって、児玉幸子の今回の作品は川上弘美と組んでの「七つの質問」。これは、部屋の中央に鏡台のような声を発する箱(鏡があるわけではないけど)が置かれていて、ダイヤルを回すと質問をしてくる(ちょっとこの辺りディテールが曖昧)。で、おそらくそれに答えると、その声に反応して前のテーブルに置かれた巨大な皿の中にある黒いスープ様のものが中心で盛り上がり突然ウニになる! と言うようなものだと思う(この黒いスープが「磁性流体」)。でも、例えばこれ、「今の気分はどうですか?」みたいなことを聞かれて、「そうですね、ま、悪くはないですけど……今日長野から東京に出てきて、親戚なんかへのお土産に日本酒の三合瓶二本と、なぜか親にそば粉400gを持たされたんで、とても重くて、そろそろ宿に行ってくつろぎたいかなぁと……」などと答えようにも正直答える勇気がない。なぜなら、部屋の入口(扉なし)から、先客あり?と覗いている人の気配が何度もしたから。作品をあくまで監視員の目の届くところに置いておきたいのは分かるけど、こういう作品の場合、やっぱり周りを気にせず作品と一対一で対峙できる環境を提供して欲しいものだと思う。
もう一つ見た「日本の新進作家vol.6 スティル・アライブ」は何となく歩きながら見終えてしまったな。なかでは大橋仁の、アジアの売春婦?を撮ったらしい作品に惹かれた。この人の他の作品も観てみたいと思わせるものがあった。
国立新美術館
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翌日午前中は予定通り横山大観展を観に国立新美術館へ。
自分が今までに何らかの形で見知っていたいくつかの作品――たとえば「無我」、「村童観猿翁」、「屈原」などは比較的初期の作品なんだねぇ(ただし「屈原」は展示期間中ではなかったため観られず)。その後「朦朧体」と呼ばれる画法に傾倒していくこととなる(らしい)。
やはり有名作品がどうしても目にとまるのだけど、そのなかで特に圧巻だったのは見知っていた初期作品よりも、初めて観る「生々流転」と言うタイトルの、文字通りの一大絵巻だった。これは川の源流が大河となってやがて大海を形成するに至るまでを描いたもので、一連の水の流れにまつわる人や鳥・動物の営みが併せて描き込まれており、最後は龍という日本画にはおなじみのガジェット(と言って良いのか……)まで登場する[1]。絵巻物としての性質上、みんなが端から観ていくことになるため、一人ひとりが結果的に前の人の後を着いていくことになり、歩みがのろかったり立ち止まって観ていたりすると、監視員が寄ってきて、誰にともない口調を装いつつ明らかに自分に向かって「混んでいるので立ち止まらないでください」などと言うのだけれど、むしろ後続の人たちに「抜いていってください」と言ってほしいものだ、と言うのはわがままだろうか。結局、この作品だけ二巡してしまった。
ショップにて気に入った絵の絵はがきなんぞを物色するも、実物との差異にがっかりして結局買わずに終わる。絵はがきって、買って持ち帰っても何もうれしくないのだ。気に入ったものを買ったらその場で誰かに送ってしまわないと。そんな相手もなし、それに今回の東京行きのメインである演奏会の開演まで残り30分強。六本木から会場である芸術劇場のある池袋まで行くのに、新宿までは東京の深淵、大江戸線を利用するため、上り下りのエスカレータはすべて右側を歩行。開演時刻の14:00には少々遅れたものの、開演もまた少々遅れたために事なきを得た。
演奏曲はストラヴィンスキーを軸に選曲されたと思しき芥川也寸志、黛敏郎の1曲ずつと、メインが「春の祭典」。前2曲は初めて聴くものだったけれど、僕好みで良かった。特に黛作品、第1部の冒頭と終わり部分の、弦楽器のソリストたちがポルタメントを駆使して演奏するところ、その響きが笙みたいで惹き込まれた。
肝腎の「春の祭典」は他の2曲と違い、唯一僕の頭の中にすでにプロのCDによる見本演奏が入っており、そう言う意味では新響やや不利な条件での演奏だったわけだけど、明らかな失敗を加味してもなかなか良い演奏だったと思う。後で後輩氏が言っていたように、この曲に対するモチベーションに一人ひとり差がある、と言うことが聴衆に伝わってしまった部分もあったかと思うけれど。
それでも、途中興奮のあまり無意識のうちに前のめりになってしまい、それに比して両隣の人たちがあまりにも冷静に曲を聴いているために、はっと我に返って平静を装いつつ背もたれに戻ることもしばしば。
「春の祭典」初ライブ体験としては総じて満足の行くものだった。
その後は、彼と、演奏を聴きに来た関東圏に住む彼の友人たち――みんな高校の後輩にあたるのだけど、彼らに混ざって会場近くの台湾料理屋にて飲み会。ここで食べたニンニク醤油漬けのシジミが非常に美味でみんなして何度もおかわりしたのだけど、それが帰りの特急あずさの、気密性の高い車両内にて最悪の異臭源となっていたことを知ったのは、家に着いて家族に臭いを指摘されたあとのことだった。
- 実際には、龍は再び天に帰って行く水を表現したものであり、ただの小道具というわけではないとの由。万物の流転を水になぞらえた作品というわけだ。甘かった。
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